大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和53年(ワ)12992号 判決

原告 遠山四郎

右訴訟代理人弁護士 小原美直

被告 国

右代表者法務大臣 坂田道太

右訴訟代理人弁護士 武内光治

右指定代理人 芦原利治

〈ほか三名〉

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金二七八〇万六七〇四円及びこれに対する昭和五〇年七月一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  主文同旨

2  仮執行免脱宣言

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者関係

原告は、訴外亡遠山豊彦(以下「豊彦」という)の父であり、被告は、国立病院医療センター(以下「医療センター」という)の開設者である。

2  豊彦の死亡

(一) 豊彦は、昭和四九年七月ころから、左足の腫れ、だるさを感じるようになり、同五〇年三月一五日、医療センターで訴外野田栄次郎医師(以下「野田医師」という)の診察を受けたところ、下腿静脈血栓症と診断された。

(二) その後、豊彦は、右下腿静脈血栓症の治療のため医療センターに通院し、同年五月一二日、医療センターに入院した。

(三) 豊彦は、同年六月三〇日、訴外桜井正則医師(以下「桜井医師」という)の執刀、野田医師の助手のもとで手術を受けることになり、午後一時三〇分ころから、麻酔医により全身麻酔を施されて、午後二時ころから左下腿静脈交通枝結紮切離手術を受けた。手術は、二時間五分を要し、同日午後四時五分ころ終了した。

(四) 豊彦は、同日午後四時二五分ころ、手術室から同人の病室(八〇三号室四号ベット)に戻ったが、午後四時三〇分には、顔色が不良であり、午後五時一〇分には、悪心、吐きけのためうがいを希望し、看護婦の呼名に対してもやっと応答ができる状態であった。

午後六時には、顔面が紅潮し体熱感があり、その後、吐きけ、胃部痛を訴え、胃液を嘔吐し、午後七時二五分には顔面蒼白、血圧測定困難、脈搏微弱不整となり、当直医が人工呼吸等の応急措置をとったが、午後一一時、死亡するに至った。

3  豊彦の死因

豊彦は、下腿静脈血栓もしくは術後静脈血栓症から生じた血栓の肺への移行により惹き起こされた肺塞栓に伴う肺容量の低下から呼吸不全を生じたか、又は、麻酔ガスの胃内残留、嘔吐、胃液の誤飲、肺合併症(肺塞栓)から呼吸不全を生じ、右呼吸不全に招来された心不全により死亡したものである。

4  被告の責任

(一) 全身麻酔による手術後は、一般に、嘔吐、呼吸不全、低血圧等の合併症を起こしやすく、殊に、意識が完全に回復しない麻酔の覚醒時には、腸の活動が鈍り、胃に残留した胃液を嘔吐することが多く、この場合、胃液を誤飲して気道を閉塞するか又は呼吸困難から肺炎を招来することがある。また、血栓の手術後は、血管結紮の術後滑脱等の合併症を起こしやすく、特に、豊彦の受けた手術は左下腿静脈交通枝結紮切離手術であり、その創傷は、左下腿内部で三五か所、筋膜組織で三一か所、筋膜から深部静脈に至る交通枝で六か所と多部にわたっており、右手術と血栓の遊離とは無関係ではない。

従って、本件手術は、全身麻酔による、しかも、血栓の手術であるから、これを執刀した桜井医師及び助手を務めた野田医師は、手術後は、豊彦を回復室に収容し、両医師のうち少なくとも一人は、麻酔から全覚醒の状態に至っていない豊彦のそばに常時付き添って、同人の血圧、脈搏、呼吸数、体温の測定のほか、心音、心電図、顔貌、意識の変化を観察したうえ、豊彦が麻酔覚醒時に嘔吐した際には、吐物が気管内にはいらず鼻腔、口腔より外方に流出するように同人の頭部を側方に曲げ、胃内にチューブを挿入して胃液を吸引し、また、血栓の肺への移行を生じたり、静脈環流を阻害したりなどすることのない体位をとり、ウロキナーゼを大量に使用して血栓の溶解に努める等の措置をとり、もって、同人の容態に応じ、合併症の誘発を防止するように術後の管理を尽くすべき注意義務があった。

(二) しかるに、右桜井医師及び野田医師は、手術後、豊彦を手術前と同じ病室に戻し、豊彦のそばに常時付き添うことなく、看護婦に経過の観察を任せ、看護婦をして血圧、脈搏、呼吸数、体温の測定をさせたのみであった。しかも、術後の経過の観察を任された看護婦は、豊彦が胃液を嘔吐したのに対して、午後七時一五分に胃部に氷のうをあてる措置をとっただけで、桜井医師及び野田医師は、右看護婦に豊彦の胃内にチューブを挿入して胃液を吸引させることもせず、また、午後四時三〇分には、豊彦の左肢を挙上させ、かえって肺塞栓がおこりやすい体位をとり、ウロキナーゼを手術後には全く使用しなかった。

(三) 豊彦は、桜井医師、野田医師の右過失により、前記3の原因で死亡するに至ったものであるから、被告は、右医師らの使用者として、豊彦の死亡につき、原告に対して後記損害を賠償すべき義務がある。

5  損害

(一) 逸失利益

豊彦は、死亡当時二〇才で、沖電気工業株式会社に勤務していたから、二〇才の男子労働者の平均年収一五三万六三〇〇円(昭和五〇年賃金センサス第一巻第一表産業計、企業規模計、学歴計男子労働者の二〇才ないし二四才の平均年収)を得ていたことは明らかであり、これを基礎として、生活費を収入の五割として控除し、六七才までの四七年を労働可能年数とし、ホフマン式年別計算法により中間利息を控除して、同人の死亡時における逸失利益の現価を求めると、金一八三〇万六七〇四円(一円未満切捨)となる。

153万6300円×0.5×23.8322=1830万6704円

原告は、豊彦の父として、右逸失利益一八三〇万六七〇四円の損害賠償請求権を相続した。

(二) 慰藉料

豊彦の死亡により、同人は、その被った精神的苦痛に対して、金五〇〇万円相当の慰藉料請求権を取得したが、その死亡により、原告がこれを相続したほか、原告は、その子豊彦の死亡により、自らも精神的苦痛を被ったところ、これを慰藉するに足る金員は、金三〇〇万円をもって相当とする。

(三) 葬儀費

原告は、豊彦の葬儀費として、金五〇万円を支出した。

(四) 弁護士費用

原告は、原告訴訟代理人に対し、本件訴訟の提起、追行を委任したが、その弁護士費用としては、金一〇〇万円が相当である。

6  よって、原告は、被告に対し、民法七一五条一項の使用者責任に基づき、損害賠償金二七八〇万六七〇四円及びこれに対する本件死亡事故の発生した日の後である昭和五〇年七月一日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2(一)  同2(一)ないし(三)の事実はいずれも認める。

(二) 同2(四)の事実のうち、豊彦が、手術後、手術室から同人の病室に戻ったこと、豊彦が、午後五時一〇分に、うがいを希望したのが悪心、吐きけのためであったこと及び看護婦の呼名に対しやっと応答ができる状態であったことは否認し、その余は認める。

なお、豊彦の初診から死亡までの症状、診療の経過は、後記被告の主張1のとおりである。

3  同3の事実は否認する。

解剖所見上、静脈血栓の肺への移行、肺塞栓の所見は認められていない。

豊彦の死因については、後記被告の主張2のとおりである。

4(一)  同4(一)の主張は争う。

(二) 同4(二)の事実のうち、桜井医師及び野田医師が、豊彦のそばに常時付き添っていなかったこと、看護婦が豊彦の胃内にチューブを挿入し胃液を吸引する措置をとらず原告主張の時刻に豊彦の胃部に氷のうをあて、また、豊彦の左肢を挙上したこと及び手術後ウロキナーゼを使用しなかったことはいずれも認め、その余は否認する。

(三) 同4(三)の主張は争う。

桜井医師、野田医師に過失がなかったことについては、後記被告の主張3のとおりである。

5  同5の事実は不知。

三  被告の主張

1  豊彦の初診から死亡までの症状、診療の経過は次のとおりである。

(一) 豊彦は、昭和五〇年三月一五日、左下腿部の腫脹、色素沈着及び圧痛を訴え、医療センター外科で診察を受けた。担当の野田医師は、診察の結果、入院して精密検査及び治療を受けることを勧めた。

(二) 豊彦は、同年五月一二日、医療センターに入院し、入院時の一般的な検査では異常は認められなかったが、同月一九日の下肢静脈造影検査及びその後の静脈圧測定により、深部静脈の狭窄性変化、深部静脈と浅在性静脈間の交通枝の弁閉鎖不全等が証明されたため、静脈交通枝結紮切離手術を受けることとなった。

(三) 豊彦は、麻酔担当医の訴外與五沢桂子医師(以下「與五沢医師」という)によって同年六月二九日午後九時、前投薬としてネルボン五ミリグラムを、翌三〇日正午、同一〇ミリグラムを、それぞれ経口投与された後、同日午後一時二〇分に手術室にはいり、午後一時三五分、與五沢医師が、麻酔の導入を開始し、意識消失後、気管内チューブを挿入して、笑気、酸素及びハローセンによる維持麻酔を行い、午後二時、桜井医師は手術を開始し、膝下部から内踝部まで皮膚切開し、筋膜下で静脈交通枝を一〇本結紮切離した後、筋膜、皮膚を縫合し、弾性包帯を施して、午後四時五分、手術を終了した。

(四) 手術終了と同時に、與五沢医師は、笑気を切り、酸素のみを送管し、豊彦の口腔内、気管内の唾液、分泌物を吸引した。名前を呼ぶと、同人が目を開け深呼吸をしたため、気管内チューブを抜去した。午後四時一五分、麻酔終了時に、血圧一四〇―一〇〇、脈搏八四、心電図正常で、意識もはっきりしていた。

豊彦は手術室から更衣室に移され、與五沢医師は、豊彦の経過を観察したが、衣服の着替えの時、同人は、與五沢医師に対し、「おなかがすいた」と言い、抜管後、空気自然呼吸で一〇分たっても、チアノーゼや不整脈はなく、血圧及び脈搏数に変動がなかった。

同日午後四時二五分、豊彦は、麻酔覚醒のうえ、病棟内のナースステーション近くの回復室(八〇一号室)に収容された。帰室時の血圧は一四〇―一〇〇、脈搏八六、口唇色良好、四肢の冷感なく、爪甲色良好、脈の緊張良好、呼吸も整い、呼名に応じる状態であった。

午後五時一〇分にも、意識は明瞭で、呼名に応答し、全覚醒状態であった。

午後六時、当直医の回診の際、血圧一一〇―六二、脈搏一〇二、呼吸一六で、当直医は、豊彦が全覚醒状態で異常がないことを確認した。

午後六時三〇分ころ、桜井医師、野田医師も、豊彦に特に異常がないことを確認した。

(五) ところが、午後七時になって豊彦は、悪心、吐きけを催し、胃液一〇ミリリットルを嘔吐し、午後七時一五分、再び胃液を嘔吐した。

午後七時三〇分、看護婦から当直医に、豊彦は顔面蒼白となり、悪心、吐きけが強くなってきたとの報告があり、当直医が診察すると、豊彦は、「苦しい」と言ったあと応答しなくなり、脈も触知不能となった。午後七時三五分ソルコーテフ、カルニゲンをゴム注している最中、突然呼吸停止し、当直医らは、体外心マッサージ、人工呼吸を開始し、一時自発呼吸もあったが、各種強心剤の投与も効を奏さず、死亡に至った。

2  豊彦の死因は、術後急性肺水腫又は肺内微小血栓塞栓に起因するショック死である。

(一) 肺気管内挿管をして全身麻酔を施す場合には、術後肺水腫の主因である肺胞毛細血管圧の上昇原因の形成に影響を与えることは避けられないところ、解剖所見によれば、豊彦の肺の重さは、左が六一〇グラム、右が六八五グラムであって、通常の肺より著しく重く、急性肺水腫であることを示している。

(二) また、豊彦は、元来、静脈血栓症の患者であるので、解剖時肉眼的所見として把捉できない程度の微小血栓が肺動脈の末梢の細い枝にひっかかり、その反射でショックが生じたとも考えられる。

また、本件手術のような大きな外傷に匹敵するものがあると、組織トロンボブラスチンが大量に放出されて血管内凝固症候群(DIC)が惹起され、DICによる肺内微小血栓がショックを生じさせたとも考えられる。

3  豊彦の術後管理について、桜井医師及び野田医師には、なんらの過失もなく、両医師の術後の措置と豊彦の死亡との間に因果関係もない。

(一) 豊彦は、手術後、医療センターの術後管理体制の常として、術後患者を監視するのが容易であり、救急医療器具及び緊急薬剤が準備されている回復室(八〇一号室)に収容されており、回復室に収容すべき義務があるとしても、右義務はつくされている。

回復室においては、看護婦が、血圧、脈搏、呼吸数及び体温の測定のほか、意識状態、顔貌、四肢冷感、循環障害、運動障害又は知覚障害の有無、吐きけ、出血状態、肢位、疼痛等にも十分な関心をもって観察しており、異常があれば直ちに医師に報告することになっていたのであるから、手術を担当した医師が患者のそばに常時付き添って、右の看護婦と同じ観察をしていなければならない注意義務はない。

更に、本件では、手術後、麻酔医が、豊彦に呼吸等なんらの異常がなく、意識もはっきりしていることを確認し、同人の帰室を許しており、その後の午後四時三〇分の顔色不良は、麻酔覚醒後の時間からみて普通の所見であり、循環、呼吸状態は測定値が正常で、なんらの異常もみられなかったし、午後五時一〇分には、看護婦が、全覚醒状態であることを確認し、午後六時には、回診の当直医が、診察のうえ異常がないことを確認していた。この際の血圧等の測定値も、通常の術後経過を示しており、特別な措置はなんら必要性が認められなかった。また、手術の担当医も、午後六時三〇分ころまでは、数回、回復室を訪れ、術後の状態を観察し、経過に異常がないことを確認していた。

その後、悪心、吐きけがみられたが、これは、術後短時間の患者には、時々みられる所見であり、はじめて嘔吐したのは、午後七時であった。

以上の経過からすれば、合併症の続発を防止する措置を講ずる必要性の前提を欠いていたもので、合併症の続発を防止することができたのに、手術の担当医がついていなかったため防止できなかったということはできない。

(二) 豊彦は、呼名に応答し、意識明瞭で、反射運動が存在したから、悪心、吐きけがあったからといって、吐物を誤飲する危険はなく、また、午後七時に嘔吐した胃液の量が一〇ミリリットルであったことからしても、胃内にチューブを挿入して胃液を吸引する必要性はなかった。

更に、本件死因は窒息死ではないから、胃液を吸引すべき注意義務と死亡との間には因果関係がないことが明らかである。

(三) 本件手術は、下腿の表在筋膜下に存在する静脈交通枝を切離する手術であって、血栓の存在する深部静脈系には全く侵襲を及ぼさない手術であり、血管に関係した創傷部は六か所のみで、他は筋膜皮膚縫合のための創傷であって血栓の形成とは関係がない。従って、本件手術は血栓の遊離には無関係であり、血栓の遊離を前提とする注意義務は存在しない。

左下肢挙上は、下肢のうっ血を除き、浮腫を防止し、後出血を避ける手段であって、下肢静脈手術後に当然行われる措置であり、左下肢挙上の措置をとるべきではないとはいえない。

また、ウロキナーゼは、フイブリンを溶解する作用をもつので、術後に使用すると一種の溶血現象が生じ、後出血の持続の危険が生ずるので、手術前に血栓溶解のため使用したからといって、手術後も使えるものではない。

更に、解剖所見上、静脈血栓の肺への移行、肺塞栓の所見は認められていないから、血栓の肺への移行を防止すべき注意義務と死亡との間には因果関係がない。

(四) 豊彦の死因が、急性肺水腫とすると、一般的に、肺水腫の発生には多種の条件が複雑に関与しあい、いずれの要因が主となり、又は、補助的役割を果たしているのかは必ずしも明確にできないところ、本件の急性肺水腫発生の原因も確定することができず、従って、原因を排除し急変を防止することは困難であり、不可抗力の結果というほかない。

(五) また、死因が微小血栓塞栓とすると、治療の過程で静脈血栓症の一般的治療法である下肢の圧迫包帯、血栓溶解療法などを行っていたにもかかわらず、微小な血栓の静脈内移行を完全に阻止できなかったものであり、不可抗力の結果というほかない。微小血栓塞栓は、術前、入院前、将来とも偶発的に発現する可能性を有していたもので、本件手術を縁由としてこれを生じたということはできない。

第三証拠《省略》

理由

一  原告の子である豊彦が、下腿静脈血栓症のため、被告の開設する医療センターに通院し、昭和五〇年五月一二日入院したこと、豊彦は、同年六月三〇日午後一時三〇分ころから、全身麻酔を施され、同日午後二時ころから、桜井医師の執刀、野田医師の助手のもとで、左下腿静脈交通枝結紮切離手術を受けたこと、右手術は午後四時五分ころ終了したこと、豊彦は、同日午後四時三〇分には顔色が不良であり、午後五時一〇分にはうがいを希望したこと及び午後六時に顔色が紅潮し体熱感があり、その後、吐きけ、胃部痛を訴え、胃液を嘔吐し、午後七時二五分に顔面蒼白、血圧測定困難、脈搏微弱不整となり、当直医が人工呼吸等の応急措置をとったが、午後一一時に死亡したこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

右争いのない事実並びに《証拠省略》を総合すれば、次の各事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

1  発症から入院まで

(一)  豊彦は、昭和四九年七月ころから、左下肢腓腹部に腫脹を生じ、倦怠感があったが、これは一か月位で軽減した。同五〇年二月ころから、再び腫脹と同時に皮膚に色素沈着、圧痛を生じ、沈着部が拡大する傾向にあった。

(二)  豊彦は、同年三月一五日、右(一)の症状を訴えて医療センター外科を受診し、担当の野田医師に、左下腿深部静脈血栓症と診断され、その後、治療のため医療センターに通院したが、同年五月一二日、精密検査と手術の適応がある場合の手術を目的として、医療センターに入院し、南病棟八〇三号室にはいった。

2  入院後から手術まで

(一)  豊彦の入院時の全身所見は、神経系、循環器系、呼吸器系、泌尿器系その他に特に異常は認められず、入院時の一般的な検査としてなされた、同月一三日の胸部レントゲン撮影、心電図検査及び血液Ⅰ(白血球数、赤血球数等)、血液Ⅲ(血沈)・生化学(肝機能・腎機能・電解質)・血清Ⅰ(梅毒反応)・血清Ⅱ(リューマチ反応炎症反応)・尿の各検査並びに同月一六日の血液Ⅱ(出血時間・凝固機能)検査においても特に異常は認められず、また豊彦の疾患が下肢の疾患であるため特になされた骨盤・下肢骨レントゲン撮影においても左下腿の軟部組識の最大径が右より約一・二センチメートル太いほかは異常は認められなかった。

(二)  豊彦の入院時における左下肢の局所所見は、初診時の所見とあまり変化がなかったが、腓腹部がび漫性に腫れ、下腿中央部前面から内面にかけて色素沈着があり脛骨面に軽度の浮腫があった。

同月一九日、下肢の静脈造影検査によって静脈の形態的な変化をみたところ、下肢に二系統ある静脈のうち深部静脈(大腿静脈・膝窩静脈)が太い流れとして造影されず、非常に多くの側副血行が発達していることがわかり、また、右深部静脈の内面がちりめんじわのような像を呈しているので、壁在血栓があると想定され、血栓症後症候群を伴った深部静脈血栓症と診断された。

そこで、下肢に圧迫包帯をしたり、足を少し高くして寝るという治療のほか、同月二一日から同年六月九日まで、ウロキナーゼ(繊維素溶解酵素)を点滴静注し、血栓の溶解に努めたが、症状の変化はみられなかった。なお、ウロキナーゼ点滴を中止した翌日の同月一〇日、再び血液Ⅱ検査を行ったが、ウロキナーゼの使用に伴う特別な異常はなかった。

(三)  同月一六日、下肢の静脈圧測定を行い、静脈の機能的な変化をみたところ、表在性静脈と深部静脈の間の交通枝の弁が閉鎖不全であることがわかった。右閉鎖不全を放置しておくと、下肢の栄養障害、色素沈着がひどくなり静脈性潰瘍を生じ易くなるので、野田医師は、交通枝結紮切離手術が必要であると判断し、豊彦に説明したところ、同人も右手術を承諾した。

(四)  手術前の検査として、同月二七日に、血液Ⅰ検査が、同月二八日に、生化学・尿の各検査が行われたが、いずれも異常は認められなかった。

また、同日、麻酔科医の與五沢医師が、豊彦の一般状態を診察したが、全身麻酔を施すのに問題となるような異常はなんら認められなかった。そこで、與五沢医師は、麻酔の前投薬として、同月二九日午後九時に、ネルボン五ミリグラムを、同月三〇日午後一二時一〇分に、同一〇ミリグラムを各投与した。

(五)  同月三〇日午後一時二〇分、豊彦は、手術室にはいり、まず、胸に心電図の装置をつけ、右手に血圧計を、左手に点滴用の管をつけた。午後一時三五分、與五沢医師が、ラボナール(静脈内麻酔剤)二〇〇ミリグラムを点滴静注して麻酔を開始した。同時分に、血圧は一三〇―七〇、脈搏は一〇五であった。豊彦が眠った後、與五沢医師は、サクシン筋弛緩剤六〇ミリグラムを注射し、気管内チューブを挿入して、フローセン、笑気、酸素によって麻酔の維持をはかった。

手術は、豊彦が入院後野田医師と同じく受持医となった桜井医師が執刀医となり、野田医師が助手をつとめた。桜井医師は、午後二時手術を開始し、膝窩部から内踝部まで左下腿内側を、皮膚、皮下組織、筋膜の順に切開し、交通枝六本を結紮切離して、筋膜、皮下組織、皮膚の順に縫合し、後出血及び術後浮腫予防のため弾性包帯を巻き、午後四時五分、手術を終了した。

手術中、與五沢医師は、豊彦の頭の側に立ち、麻酔器を操作すると共に心電図、血圧、脈搏及び呼吸を観察していたが、なんら異常は認められなかった。

3  手術後から死亡まで

(一)  桜井医師および野田医師は、午後四時五分ころ、右手術を終了すると、麻酔の覚醒は與五沢医師に任せ、更衣室に引き上げた。

與五沢医師は、これより先、麻酔覚醒のため、手術終了が近づくと、まずフローセンを切り、手術終了と同時に笑気を切り、手術後酸素だけを送管し、気管内、口腔内の分泌物を吸引した。そして、豊彦の頬を軽くたたき、深呼吸をして下さい等と呼びかけると、豊彦は、目をあけ、呼びかけに応答したので、気管内チューブを抜去した。再び、頭をあげて下さい等と呼びかけたところ、これに対しても応答があったので、午後四時一五分、麻酔終了とした。同時分の血圧は、一四〇―一〇〇、脈搏は八六であった。

與五沢医師は、豊彦に付き添って、手術室の横の更衣室に行き、同室においても、豊彦の状態を観察したところ、豊彦は、ぼおっとした状態ではあったが、與五沢医師の呼びかけに応答し、特に、自分から「おなかがすいた」と言ったりした。そこで、與五沢医師は、麻酔覚醒と認め、豊彦を回復室に送ることにした。與五沢医師から病室担当の看護婦に対し、特に申し送り事項はなかった。

(二)  豊彦は、更衣室から、午後四時二五分、八〇一号室(術後回復室)に収容された。八〇一号室は、病室ではあるが、昭和四八年ころから、心臓手術等大きな手術の術後観察のために特に使われた部屋で、近位集中治療室(I・C・U)ができてからは、心臓手術以外でも一般の南病棟八階に入院した患者の術後観察のため使われていた。同室内には、酸素吸入器、人工呼吸器、心蘇生器等が備え付けられ、また、緊急薬品、救急用具が用意されているナースステーションにも近い位置にあった。

豊彦が、八〇一号室に戻ったころ、野田医師が、豊彦の様子をみに来たが、豊彦は、麻酔終了一五分後のため顔色が青ざめていたが、呼名には応じ、意識があり、脈搏は規則正しく緊張もよく、呼吸も正常で、チアノーゼはなかった。看護婦の測定によれば、午後四時三〇分の体温は三五度九分、血圧は一三六―六〇、脈搏は一〇八、呼吸数は一二であった。

野田医師は、診察後、看護婦に対し、後出血及び浮腫の予防のため左下肢を高めに置くよう指示し、看護婦は、ベットの尾側を一〇度位上げ、左足の下に枕を入れ左下肢を挙上した。そのほか、野田医師は、ソリタT3(輸液剤)・ビスコン(総合ビタミン剤)・ビクシリンS(抗生物質)等の点滴及び疼痛時のペンタジン投薬を指示した。

(三)  午後五時一〇分、準夜勤看護婦として豊彦の担当となった訴外坂本栄子看護婦(以下「坂本看護婦」という)は、引き継ぎを受けて、豊彦の容態をみに来た。坂本看護婦が豊彦の名を呼ぶと、豊彦は目をあけ応答した。更に、豊彦に対し、痛いところや苦しいところはないかきいたが、何らの苦痛も訴えられなかったので、坂本看護婦は、豊彦について、全覚醒状態にあるものと認めた。

豊彦は、このとき、のどがかわいたと言って水を飲みたがったので、坂本看護婦は、うがいのみを許し、水を吐き出すのを確認した。

(四)  午後六時ころ、当直外科医の訴外佐藤修医師(以下「佐藤医師」という)が、夜勤婦長と共に回診を行い、豊彦の容態を観察したが、術後の経過として通常の状態であると認め、特に指示は出さなかった。午後六時の測定によると、体温は三七度、血圧は一一〇―六二、脈搏一〇二、呼吸数一六であった。坂本看護婦が右測定に来た際、他の病室の患者が豊彦に話しに来ていたので、注意を与え、その患者を自室に戻した。豊彦は、体温が上昇し、普通の状態に戻ってきたことに伴い、顔面が紅潮し、体熱感を持ってきた。

午後六時一〇分、術中輸液の残りのラクテックがなくなったので、ソリタT3五〇〇ミリリットル、ビスコン一アンプル、ビクシリンS一グラムの点滴を開始した、

(五)  午後六時三〇分以前に野田医師が、容態をみに来たところ、豊彦に特に異常が認められなかったので、同医師は帰宅した。

(六)  同時刻ころ、坂本看護婦が容態をみに来ると、豊彦は、悪心、吐きけを訴えたが、嘔吐はなかった。また、暑苦しさを訴え、体動が活発となったので、坂本看護婦は、二枚かけていた上掛けのうち、一枚をはずした。

(七)  午後七時、豊彦の悪心、吐きけが続き、胃液一〇ミリリットルを嘔吐した。右吐きけ、嘔吐は、全身麻酔による手術後の患者には通常みられる症状であり、豊彦の場合もこれと同様であり、かつ右嘔吐の際は、自分で横を向いたので、坂本看護婦は、吐物を受け血に受け、量を計った。嘔吐の後、豊彦は口の中が気持ち悪いと言うので、うがいをさせた。

その後も胃部の不快感が持続していたところ、午後七時一五分、豊彦は、再び、胃液五ミリリットルを嘔吐したので、坂本看護婦は、胃部に氷のうを当て、様子を観察した。

午後七時までは、坂本看護婦は、そのつど、八〇一号室を訪れていたが、午後七時以降は、ずっと豊彦に付き添っていた。

(八)  午後七時二五分、豊彦は、胃をおさえ、胃痛を訴え、悪心、吐きけが強まるとともに、顔面蒼白となり、爪床はまだピンク色ではあったものの、冷汗をかき、血圧が降下し、その測定が困難となり、脈搏も微弱、不整となった。坂本看護婦は、急いで佐藤医師に、症状の変化を報告した。

直ちにかけつけた佐藤医師が、豊彦に、「どうした」ときくと、「苦しい」と言ったきりで、脈搏はほとんど触知しえなかった。このとき、チアノーゼはなかった。佐藤医師は、とっさに、急性心不全と考え、点滴の管の中に、カルニゲン(昇圧剤)一アンプル、ソルコーテフ(副腎皮質ホルモン剤)一〇〇ミリグラム、ノルアドレナリン(昇圧剤)一アンプルを入れるよう指示し、坂本看護婦が右処置をとっていたところ、午後七時三五分、豊彦の瞳孔が固定、縮少し、突然、呼吸停止となった。

(九)  佐藤医師、坂本看護婦は、心臓マッサージ、アンビュー呼吸器による人工呼吸を始め、午後七時四五分には、他の当直医等の応援を得て、気管内挿管をし、吸引をしたが、分泌物は何も吸引されなかった。

午後八時、ベネット人工呼吸器を装着し、心臓マッサージを続け、午後八時一〇分ころ、野田医師が来て、同様の処置を続け、昇圧剤、アチドーシス中和剤、カルシウム剤各種を点滴静注又は心臓注射し、その後、桜井医師も来たが、午後一一時、豊彦の死亡が確認された。

4  死亡後の対応

豊彦の死因が不明であったため、当初、家族の承諾を得て、医療センターで解剖を行う予定になっていたが、病理医から、死亡について不審な点があるので客観的な解剖の方がよい旨の申し入れがあり、同年七月二日、司法解剖が実施された。

二  右事実を前提に、豊彦の右死亡の原因及びそれと本件手術との関係について検討する。

《証拠省略》によれば、豊彦の解剖所見には、(1)心臓内血液が流動性であること、(2)胸腺、心、肺、気管、腎、胃、小腸、大腸などの諸臓器の漿膜下又は粘膜下に溢血点がみられること、(3)脳、肺、肝、腎、甲状腺などの諸臓器にうっ血がみられることなどショック死の死体にしばしば見られる所見が認められるところ、豊彦は、呼吸停止に先立つ午後七時二五分には、顔面蒼白、冷汗、血圧降下というショック時の症状を呈していたことは前記認定のとおりであるから、豊彦はショック死したものと認めるのが相当である。

そこで、右ショック死を惹き起こした原因について検討する。

1  《証拠省略》によれば、術後肺塞栓症は、術後、静脈内の血栓が剥離し、それが右心室から肺動脈内に入って発症するものであって、その症状は、呼吸困難、胸部疼痛、チアノーゼ、微弱な速脈、不安感、吐きけ、嘔吐、腹痛、めまいなどであり、しばしば転々反側して、ついにはショック症状を呈するものであることが認められる。

豊彦が下腿静脈血栓症の患者であったことは、当事者間に争いがなく、同人は、午後六時三〇分ころから、吐きけが持続し、午後七時と午後七時一五分の二回にわたって胃液を嘔吐し、午後七時二五分には胃痛を訴え、また、その直後にかけつけた佐藤医師に対し「苦しい」という胸内苦悶をうかがわせることばをもらしたことは前記認定のとおりであるところ、《証拠省略》によれば、豊彦の診断、経過観察にあたった野田医師らが、豊彦のショックの原因として先ず血栓の肺への移行を考えたことが認められる。

右によると、前示ショックは、術後肺塞栓症によって惹き起こされたのではないかという疑いがもたれる。

しかし、《証拠省略》によれば、豊彦の解剖所見上、急性の肺塞栓を起こすような大きな血栓、凝血は、気管支周囲の血管系に見られなかったこと、また、解剖上、微小血栓については、その存否は確定できなかったことが認められるところ、更に、《証拠省略》によれば、急激なショック症状を呈するには、通常、大きな血栓が移行して肺の血管を一気に塞いだ場合しか考えられないことが認められ、以上の認定を覆すに足りる証拠はない。

右認定事実によれば、豊彦のショックが術後の肺塞栓によって生じたものであるとは断定し難い。

2  《証拠省略》によれば、術後急性肺水腫は、左心不全、肺動脈圧亢進、肺毛細血管の透過性亢進、肺胞内液体の吸収障害などによって、肺毛細血管からの血漿成分の漏出増大と漏出した液を排除吸収する機構とのバランスが崩れ、肺胞腔内に血漿成分が貯留し、気道にまで及ぶものであり、高度の呼吸障害と循環障害をきたす重篤な術後合併症であって、死亡率は六〇ないし九〇パーセントに及ぶこと、気管内挿管全身麻酔終了時には、間歇的陽圧換気の中止、静脈環流増大による心拍出量の増大、気道の閉塞等から、肺胞毛細血管圧が上昇し、これが主因となって術後肺水腫がおこることがあること、術後肺水腫の多くは麻酔終了後三〇分以内に発生すること及び術後急性肺水腫の症状で最も特有なものは泡沫性血痰であり、そのほか、高度の呼吸困難、チアノーゼ、喘鳴、湿性ラ音、時として血圧上昇という症状がみられることが認められ、また、豊彦が全身麻酔を施され手術を受けたことは前記のとおりであり、更に、《証拠省略》によれば、豊彦の解剖所見上、肺臓の重さは、左が六一〇グラム、右が六八五グラムであり、組織学的に、肺に高度のうっ血及び水腫がみられ、肺胞内にはやや多数の肥胖した中隔細胞の滲出がみられ、漏出性出血とみられるやや高度の肺胞内出血があったこと、気管支内には暗赤褐色粘稠血性液が多量存在したこと、従って、豊彦には急性肺水腫の所見が存したことが認められる。

そこで、前示ショックは、術後急性肺水腫によって生じたとの疑いももたれる。

しかし、《証拠省略》によれば、急性肺水腫の所見は末期的所見としても存するものであることが認められるところ、本件においては、麻酔終了からショック発現までには三時間以上を経過しており、その間に、泡沫性血痰、高度の呼吸困難、チアノーゼ、喘鳴、湿性ラ音、血圧上昇はいずれも確認されておらず、ショック発現後午後七時四五分に気管内挿管をし吸引したときに何も吸引されなかったことは前記認定のとおりである。

そうすると、解剖所見上、急性肺水腫の所見があるからといって、それが、ショック発生の原因であったとまでは断定し難い。

3  《証拠省略》によれば、吐物の誤嚥が嚥下性肺炎の原因となることがあることが認められるところ、豊彦が、午後六時三〇分ころから悪心、吐き気を持続し、その後胃液を嘔吐していることは前記認定のとおりであるが、豊彦につき、胃液誤飲の事実及びこれに伴う肺合併症の発生を認めるに足りる何らの証拠もない。

4  《証拠省略》によれば、東京地方検察庁検察官から豊彦の司法解剖と死因等の鑑定を嘱託された渡辺博司(慶応義塾大学医学部法医学教室助教授)は、豊彦の死因について、麻酔によるショック及びそれに続発した気道不全閉塞による窒息と推定したこと、麻酔によるショックと推定した理由は、豊彦にショック死の死体にしばしばみられる解剖所見があって、豊彦がショック発現前の二四時間以内に全身麻酔を施された事実があったこと及び他にショックの原因となるものが見つからなかったことによること、麻酔終了後、全覚醒状態になったとしても、そのことと麻酔によるショック発現とは矛盾しないこと並びに気道不全閉塞による窒息と推定した理由は、解剖所見上、気管内特に気管分岐部にゼリー状の粘稠液が充満していたことによることが認められる。

しかし、右のように、麻酔によるショックとする理由は、ショック発現前に全身麻酔が施されていたという以外になんら積極的な理由はなく、また、右《証拠省略》によれば、気管内の粘稠液については、ショック発生後の心臓マッサージ等の結果発生することもありうること及び本件窒息の状態のみでは死亡には至らないことが認められるから、麻酔によるショック及びそれに続発した気道不全閉塞による窒息によって豊彦のショック死が惹起されたものであるとも断定し難い。

以上によれば、豊彦のショック死につき、肺塞栓、術後急性肺水腫、麻酔によるショック及びそれに続発した気道不全閉塞による窒息は、いずれも、ショック発生の原因として、これを認めるに足りる証拠がないから、豊彦の死亡につき、その原因は明らかでなく、従って、本件手術又はその術後の措置との間に相当因果関係があると認めることもできない。

三  原告は、桜井医師及び野田医師には、術後管理の過失があり、そのため、豊彦は死亡するに至った旨主張する。

豊彦の死亡については、既に説示のとおり、そのショック死を惹き起こした原因が明らかでないので、原告主張の術後管理の過失の有無を豊彦の死亡の原因の予見及び回避の可能性と関連して判断する前提に欠けるが、原告が、桜井医師及び野田医師の術後の措置について、過失として主張するところについて、念のため検討することとする。

1  先ず、原告は、手術後、豊彦を回復室に収容し、術者(桜井医師及び野田医師)のうち少なくとも一人は豊彦のそばに常時付き添ってその容態を観察、治療すべきであった旨主張する。

しかし、前記認定の手術後の経過及び《証拠省略》を総合すれば、医療センターにおいては、昭和五〇年当時、南病棟八階に入院した患者が手術を受けたときは、術後観察のため、八〇一号室に術後一日ないし数日収容する体制をとっていたこと、同室内には、酸素吸入器、人工呼吸器、心蘇生器等が備え付けられ、そのうえ、緊急薬品、救急用具が用意されているナースステーションが廊下を隔てた斜め向かいに位置し、看護婦がしばしば患者の容態をみに行くのにも便利であったこと、そこで、同室は、単なる病室ではなく、手術後の患者を麻酔がすっかりさめて、各種の防御反射が全く回復するまで収容する回復室としての機能を有し、またそのように使用されていたこと及び豊彦は手術後同室に収容されたことが認められる。そうすると、豊彦は、術後、回復室に収容されたことは明らかであるから、回復室収容の点に関し、桜井医師らに原告主張の過失があったものとはいえない。

また、およそ手術後には、手術の程度いかんにかかわらず、術者の一人が患者に付き添うべきであるとも解されず、《証拠省略》によれば、術後管理体制については、手術の部位、侵襲の程度、手術後の患者の状態、麻酔覚醒の程度、病院側の緊急時の即応態勢等を総合的に考慮して、術者の義務を判断すべきものであると認められるところ、本件では、豊彦の手術につき、医療センターの術前・術中の措置には何ら問題がないうえ、《証拠省略》を総合すると、豊彦の受けた手術については、皮膚切開を左下腿内側の膝窩部から内踝部まで加えられているが、筋膜内の創傷は深部静脈と表在性静脈間の交通枝六本の結紮切離のみであり、血栓の存在する深部静脈系には手術の侵襲が及んでいないこと、手術時間は二時間五分であるが、手術としては簡単な部類に属すること、豊彦は、入院時及び手術前の血液検査等の一般的検査においてなんらの異常も特に認められず、手術中も、心電図、血圧、脈搏及び呼吸数に変化はみられなかったこと、手術終了後は、手術室及び更衣室において、麻酔医が、血圧、脈搏等をみ、容態を観察するのみならず、豊彦への呼びかけ、応答を通じて麻酔の覚醒を確認し、回復室への帰室を許していること、同室への帰室時に豊彦の容態を観察した野田医師は、意識状態、脈搏、呼吸等をみてバイタルサインが良好であると認め、午後五時一〇分に準夜勤看護婦として豊彦の容態をみに来た坂本看護婦もまた、呼名に対する反応、顔色、血液循環状態、皮膚の色等から全覚醒状態と認めており、このとき、豊彦は、自らうがいを希望し、一人でうがいをしていること、午後四時三〇分及び午後六時の体温、血圧、脈搏及び呼吸数の各測定値は正常であったこと、更に、当日の医療センターの看護体制については、午後四時から午前零時三〇分まで勤務する南病棟八階の準夜勤看護婦は二名で、患者は約三五名であり、そのうち坂本看護婦が担当していたのは約一七名であって、準夜勤看護婦の受持の人数としては多い方ではないこと、坂本看護婦は約一五分おきには八〇一号室に行き、豊彦のほか手術後の患者の容態をみており、その際は、豊彦の意識状態、顔貌、爪の色、皮膚の色、出血の有無及び疼痛の有無等について十分観察していたこと、豊彦の枕元には看護婦を呼ぶブザーが置いてあり、いつでもブザーを押して看護婦を呼べる旨説明してあったこと、坂本看護婦は豊彦が嘔吐した午後七時以降は豊彦にずっと付き添っていたこと、当直医の佐藤医師は、もともと南病棟八階の担当医で、八〇一号室から一〇メートル位しか離れていない部屋で当直をしていたことが認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

右のような本件手術の態様及び豊彦の手術後の状態のもとで、右のような当直医及び看護婦による術後観察がなされている場合に、なお、回復室収容後、術者が特に常時付き添うべきであったとまでは認めることはできず、従ってこの点に関し、桜井医師らに原告主張の過失があったものとはいえない。

2  次に、原告は、桜井医師らから術後の経過の観察を任された看護婦は、豊彦が嘔吐した際、吐物が気管内にはいらないように同人の胃内にチューブを挿入して胃液を吸引すべきであった旨主張するが、吐きけ、嘔吐は全身麻酔による手術後通常みられる症状であることは前記認定のとおりであり、更に、《証拠省略》によれば、開腹手術後には胃内にチューブを挿入するが、他の手術後にはめったにそのような措置をとらないこと、鼻からチューブを入れることは患者にとっては苦痛であること、通常嘔吐の量は五〇ないし六〇ミリリットルであり、胃液のみでなく胆汁を吐くこともあること、嘔吐の治療としては、まず胃部に氷のうを当てる措置をとるべきであるが、頻回の嘔吐があるときは、胃内にチューブを挿入し、内容物を吸引すべきであることが認められるところ、豊彦は午後七時に胃液一〇ミリリットル、同七時一五分に同五ミリリットルを嘔吐したにすぎないことは前記認定のとおりである。

そうすると、豊彦について、午後七時ないし七時一五分以前に、胃液吸引のために胃内にチューブを挿入する必要性があったとまではいい難い。

従って、豊彦の胃液嘔吐に際しても、原告主張の過失があったものとはいえない。

3  また、原告は、血栓の肺への移行を生じないように、左肢挙上はすべきでなく、ウロキナーゼを大量に使用すべきであった旨主張する。

しかし、《証拠省略》によれば、豊彦は、本件手術前、下腿静脈血栓症の治療の一方法として、左肢を少し高く上げて寝ていたこと及び下肢の挙上は、後出血、浮腫の予防のため、下肢の静脈手術後必ずとる措置であることが認められ、更に、《証拠省略》によれば、術後静脈血栓症の治療方法として、患肢を高挙し、温湿布をして安静にするものとされていることが認められるのであるから、本件手術後、左肢挙上はすべきではなかったということはできないし、また、ウロキナーゼの使用については、術前ウロキナーゼを連日二〇日間にわたって点滴静注したことは前記認定のとおりであるが、術後も使用すべきであるという点については何らの立証もない。

以上のとおり、原告の桜井医師及び野田医師の術後の措置について過失がある旨の主張もまた、採用するに由なしと言わざるをえない。

四  よって、原告の本件請求は、その余の点については判断するまでもなく、理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 古館清吾 裁判官 滝澤孝臣 江口とし子)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例